投稿

最新のページ

利益とは

イメージ
お客様が、 「うちは一個のお菓子を売って利益は10円しかないんだ」と。 一個のお菓子の利益 10円 そこに看板代が 10,000円 。 看板を付けてプラス 千個 を売り上げる効果が無いと、その看板は全く無意味になる。 別のお客様は、特殊な加工業。 看板を付けた後、早速、新規問い合わせがあり、看板効果で 240万円 の売り上げを上げたとのこと。 看板代は 25万円 也。 看板の効果とはすなわち売り上げが上がること。 イメージが良くなっても、売り上げが上がらないと意味が無い。 それでは一個あたりの利益が10円のお客様に、どんな提案をしたら良いのだろうか? POPペンとカラーケント紙を用意してもらい、その場で手書きで描くことに。 料金は、そのお菓子100個入り詰め合わせと等価交換(笑) それでも売り上げが上がるか保証はできない。 もどかしい。 自分が絶対的なカリスマだったらなーと。 自分の力の無さを痛感し、 自分の力で利益を生み出す。 この商売の基本を改めて考えさせられました。 株式会社看板市場について 看板の企画・デザイン・製作・施工・修理については、公式サイトをご覧ください。 看板市場の公式サイトへ

何のために働くのか

イメージ
働く理由は、 人それぞれです。 暮らすため。 自分の技術を生かすため。 誰かの役に立ちたいから。 あるいは、ほかにすることが見つからなかったから。 その理由に順位付けなど野暮なことです。 「社長がこの会社にいるからです」 もし、そう言ってくれる社員がいたら、少し照れます。 もちろん嬉しくないわけではありません。 少なくとも私は、立派な経営者になるために働いてきたわけではありません。 目の前に仕事があり、人がいて、支払いがあり、逃げるに逃げられなかった。 振り返れば、そんな日々の積み重ねでしたが、 その時間が、苦痛だけではなかった。 以前の私は、社員から不平不満や愚痴を聞くと、 「だったら辞めればいいじゃないか」 と言う思考でしたが、しかし、今は一つ訊いてみたいことがあります。 「あなた自身は、 本当は何をどうしたいの?」 社員の言葉の奥には、 認めてほしい気持ちや 向上心があるが故に「もっと何かができるはずだ。」 そんな期待が残っているからこそ、出てくる言葉なのでしょう。 ならば不平不満や愚痴の言葉は、今とは異なる方向に向かいたいという 心の叫びなのかもしれません。 私自身は やり方を残すことより、次に担う人が「自分の考えで仕事をつくれる場」を残したい。と考えています。 私が退職した後も、 「ああ、この仕事は面白いな」 と思う人が一人でも増えていたら、それでよいのではないか。 いつかその人が過去を振り返った時、 「この会社で過ごした時間は、悪くなかったな」 と思えたなら。それは、本当の会社の成果なのかもしれません。 働くことは、自分の命を使うことです。 使った時間は、二度と戻りません。 だからこそ、何のために働くのかという問いは、 自分の命を、どう使いたいのか という問いとして考えてほしいと切に願います。

ある可能性の象徴

イメージ
フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』(1889年) ゴッホの『星月夜』に描かれた、あの大きな渦。 あの渦は、精神を病んだゴッホの「心の乱れ」を描いたものだと言われてきました。 ところが、絵の明るさや渦の配置を解析すると、川の渦や煙、雲のうねりなど、自然界の複雑な流れと似た統計的な特徴が見つかったというのです。 ゴッホは、物理学に 精通していたんかーい! もちろん、そういう話ではありません。 さすがにゴッホが、物理学の数式を知っていたわけではないでしょう。 形は絶えず変わり、同じ姿には二度と戻らない。 バラバラに動いているようで、どこか似た流れを繰り返している。 無秩序に見えるけれど、その奥には何らかの秩序がある。 この研究には異論もあるのですが、私はこの話に強く惹かれます。 私が惹かれるのは、あの渦が「乱れたもの」ではなく、形を変えながら流れ続けているものに見えるからです。 それは、単に完成していないということではなく、 今とは異なる可能性に向かい続けているようにも見えます。 そして、その動きが絵の中に「ゆらぎ」として表れている。 水も、煙も、雲も、周囲との関係に応じながら姿を変え続けます。 けれど、決して止まってはいません。 人も同じなのかもしれません。 迷うこと。 心が揺れること。 今までの自分ではいられなくなること。 それらは、必ずしも良いことではありません。 けれど、すぐに「悪い状態」と決めてしまう必要もない。 乱れているのではなく、 まだ、次の形が決まっていないだけ。 ゴッホの『星月夜』は、何かの答えを描いた絵ではありません。 形を変え続ける世界の、その一瞬を捉えた絵です。 完成でも、停止でもない。 その間で、ゆらぎ続けている。 私には、あの渦が、 今とは異なる可能性へ向かい続ける 世界の、 象徴に見えるのです。 画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

どんな人からもモテたいの?

イメージ
ある日、三十代後半の男性から、こんな相談を受けました。 「どうしたら女性にモテるんですか?」 それが分かっていたら、私も苦労はしません(笑)。 「モテたい」という気持ちに、どれだけ時間やお金を使ってきたことか。 でも、考えてみると面白い問いです。 そこで、二人で真剣に考えてみました。 モテるとは、相手に気に入られ選ばれること。 ひとまず、そう考えて話を進めました。 女性といっても、赤ちゃんからお婆さんまで全ての層に気に入られることを目指すとなれば、なかなか大変です。 「いや、そこまでは求めていません」 彼の返事は早かった。 つまり彼には「女性にモテたい」のではなく、「自分が魅力を感じる女性からだけモテたい」のです。 ここで、話が少し変わりました。 この話は商売にも通じると思いました。 どうしたら、お客様に選んでもらえるのか? 「つまりモテるのか?」 価格でしょうか。品質でしょうか。対応の早さでしょうか。 こちらが気に入ったからといって、相手も気に入ってもらえるとは限りません。 恋愛も商売も、そこが難しいところです でも、全てのお客様に気に入られることだけを目的にすると、自社が大切にしているお客様まで失うかもしれません。 赤ちゃんからお婆さんまでモテるのは難しいのです。 人間関係も同じです。 自分は誰と関係を深めたいのか。 なぜその関係を深めたいのか。 相手を知ること。 自分の望みも知っておくこと。 その両方があってこそ、無理なく続く関係になるのでしょう。 モテる方法を考えていたはずが、いつの間にか、こんな話になっていました。 相談をしてきた彼も、その後、自分が求めている相手についてもう一度考えているようでした。 なかなか難しい宿題がでてしまったようです。

生きがい持たないとダメですか?

イメージ
社会の先輩たちはこう言います。 「自分だけの生きがいを見つけて自分の道をつくるんだ」と。 「誰かが引いたレールから降りろ」と言われたり 「自分だけのレールを敷け」と言われたり。 結局、 レールなのかーいって感じです。 自由に生きなさい。 自分らしくありなさい。 好きなことを仕事にしなさい。 言っていることは分かります。 でも、これって努力して見つけるものなんですかね? 答えが見つからないとき 自分の中に答えがなければ、人は社会の中に正解を探します。 それは「自分を持っていない」からではありません。 分からない中でも、何とか前に進もうとしているからです。 「ない」 ではなく 「まだない」 「まだ」には今とは違う可能性 「これから」が残っています。 「生きがい」は最初から見つかるものではなくて、人と出会い、失敗し、ときには道を外れながら、少しずつ形になっていくものなのかもしれません。 仕事では見つからないかもしれない。 多くは見つからないかもしれない。 途中で変わるかもしれない。 それで全然いいんだと思うんですね。 「生きがい」とは生きるために 敷かなければいけないレールではなく 振り返ったとき、 自分が生きてきた軌跡が 一本につながって見える。 そのとき初めて、 これだったのか と判るものなのかもしれませんね。  

美はどこに?

イメージ
美は、どこに? 美しい花、顔、絵、風景。 私たちは日常の中で、 「美しい」という言葉を、あまり使いませんが、心では感じています。 けれど、少し考えてみると不思議です。 同じものを見ても、 心を奪われる人もいれば、何も感じない人もいる。 だとすれば、美しさに基準はあるのでしょうか。 左右対称で均整が取れている。色の調和が美しい。 たしかに私たちは、ある程度、見て安心する色や形を知っています。 けれど、整っていれば必ず美しいとは限りません。 整ってはいないものの中に美しさを 感じることもできます。 劣化、傷、枯れなど。 おそらく私たちは、この現象を形だけでは見ていないのでしょう。 その傷が生まれた様子、 積み重なって出来た劣化などを無意識のうちに感じ取っているのかもしれません。 美とは、見た目の完成度だけではなく、 そのものが過ごしてきた時間まで含めて、感じ取れるものなのかもしれません。 夕暮れの空は、 昨日も今日も、ただそこにあります。 それでも、あの日の夕暮れだけが忘れられないことがあります。 空が特別だったのでしょうか。 それとも、そのときの自分が特別だったのでしょうか。 おそらく、その空と、 そのときの自分が出会った関係の中に、 忘れられない何かが生まれたのです。 そう考えると、 美とは、私と何かが出会ったとき、 つまりその「あいだ」に生まれる現象なのかもしれません。 だから、美には基準や正解がありません。 誰かが美しいと言ったから美しいのではないのです。 それを美であると感じるのは、自分自身だけが持つ感覚なのですから。 美しいものは、 私たちに答えを与えるのではなく、 小さな問いを投げかけます。 そして、その問いによって、 それまで気づかなかった自分の感覚が 静かに浮かび上がってきます。 芸術家が鑑賞者の中に 新しい感情をつくるのではありません。 作品は、ただひとつの点を打つ。 その点を受け取った私たちの内側から、 まだ言葉になっていない何かが動き始めるのです。 美を探すということは、 自分は何に立ち止まり、何に心を動かされ、 何に感動するのかと、その小さな反応に気づくことです。 ならば美とは、この世界と私を結び付けてくれるために、 その「あいだ」に生まれる、 ひとつの結び目なのかもしれません。

心理的支配からの脱出

イメージ
心理的支配の構造 見えない攻撃から 自分を守る 心配しているような言葉が、誰かを孤立させることがあります。 それは悪口でもなければ、露骨な批判でもありません。直接正面から攻撃されるわけでもありません。 「〇〇さんのこと、少し心配だよね」 「最近、〇〇さんって、何となく様子がおかしいと思いませんか?」 親切そうな言葉の中に、ほんの少しだけ疑念を混ぜ、第三者へ渡していく。言った本人は、心配している「いい人」の立場を保ったまま、相手の信用だけを少しずつ削っていきます。 やがて、周囲の空気が変わり始め、昨日まで普通に話していた人が、どこかよそよそしくなる。会話が途切れる。こちらを見る目が、少しだけ冷たくなる。 しかし、誰も理由を直接言ってはくれません。だから攻撃を受けている側は、やがて自分自身を疑い始めます。 何か悪いことをしたのだろうか 自分の何が悪かったのだろう 自責を大切にしている人ほど、この自己疑念に陥りやすいのかもしれません。 印象操作による攻撃は進みます。 この攻撃の目的は、事実によって瞬時に相手を打ち負かすことではありません。 周囲の人達に「その人に対する印象」を静かに塗り替えることです。 直接戦わない 証拠が残る悪口や論破は避け、「心配しているふり」で第三者に薄い疑念や不安を植え付けます。 自分だけ 「いい人」に残る 親切や優しさを装い、自分の評判を保ったまま、相手の信頼だけを削ります。 相手に 自分自身を疑わせる 周囲の冷たい空気を感じた人は、「自分が悪いのか」と考え、自ら孤立を深めてしまいます。 ...